令和元年度東京支部総会

令和元年度の陵水会東京支部総会は、7月6日(土)に、午後4時30分より「上野精養軒」にて開催されました。

令和元年度陵水会東京支部総会&懇親会 概要

支部総会 概要

去る7月6日(土)16:30より、上野精養軒にて「令和元年度陵水会東京支部総会&懇親会」が賑やかに開催されました。
歴代最多の出席者を記録した昨年の300名という大記録には一歩及ばなかったものの、270名を超える陵水会員OB・OGの参加者を数え、今年の総会&懇親会も華やか且つ活気に満ち溢れたものとなりました。

和田博之幹事長(大19回)による「開会宣言」の後、グリークラブOBの迫力ある歌声と共に総会の幕が切って落とされました。

竹森二郎東京支部長(大19回)の開会の挨拶の後、滋賀大学長の位田隆一様より、ご来賓のご祝辞・挨拶を頂戴致しました。

位田様のご挨拶に続き、議長に山本保氏(大15回)を選出し、【第Ⅰ部】の総会の審議に移りました。

全ての議案(第1号議案:平成30年度活動報告並びに収支決算報告・監査報告、第2号議案:令和元年度活動方針並びに収支予算、第3号議案:東京支部規則の一部改訂)の全ての審議事項が異議なく承認されました。

【第Ⅰ部】の総会が終了した後、【第Ⅱ部】に移り、今年は陵水会員でもある歴史時代小説作家の矢的竜(やまとりゅう、大18回 山本利雄様)先生にご講演を御願い致しました。

<演題>
作家への道のりと歴史通説の新解釈
~通説を打破すれば歴史は実に面白い!~

通説に囚われない歴史時代小説をこれからも書き続けたい、年に1冊は新刊を出し続けたいという矢的竜先生の熱い思いに、参加者一同胸を打たれ、お話に引き込まれました(会場内で矢的竜先生の著書の内4冊(合計110冊)の販売&サイン会も催され、大いに活況を呈しました。

続いて、『ここ滋賀』副所長の中嶋洋一様(大41回)より、滋賀県情報発信拠点『ここ滋賀』(日本橋)のご紹介、続いて彦根市企画振興部長の犬井義夫様(大41回)より「彦根の近況/ふるさと納税」のご案内がありました。

小休憩を挟んで、【第Ⅲ部】に移り、小梶清司理事長(大18回)による来賓祝辞・乾杯のご発声と共に、活気溢れる懇親会がスタートしました。

暫し歓談の後、昨年同様、首都圏で就職された10人の新卒会員(大67回)が登壇し、自己紹介と共に今後の抱負を力強く述べてくれました。

総会も終盤に差し掛かり、グリークラブOBのリードにより、「琵琶湖周航の歌」を、全員で声高らかに大合唱しました。

続いて恒例となった大31回当番幹事(藤井登代表)から次年度32回当番幹事(水上康弘代表)への「引継式」が執り行われました。更に蒔田英一郎氏(大39回、ヨット部)のエールに続いて彦根高商歌を全員で大合唱し、昨年同様、箸方海三氏(大4回)の手締め(三本締め)により、盛大な会は幕を閉じました。

総会&懇親会終了の後、舞台を隣の「桐の間」に移し、恒例の「二次会」を今年も企画致しましたが、約100名の会員の皆様に引き続き参加して戴き、懇親の輪は何時いつまでも途切れることなく、会場は陵水会員の溢れんばかりの熱気に包まれていました。

こうして、今年も東京支部は大成功裏に、総会&懇親会の幕を閉じることが出来ました。
役員一同、皆様から寄せられました会の運営に対する熱い思いと温かい労いの御言葉に対し、この場をお借りして心より感謝し御礼を申し上げます。

(文責 副幹事長 上林 好一)

竹森支部長挨拶

皆様、こんにちは!支部長を仰せつかっています竹森でございます。私のご挨拶もこれで4回目になりました。会員の皆様にはお元気で公私にわたりご活躍のこととお慶び申し上げます。平素は私ども東京支部に何かとご支援あるいはご協力を賜りまして誠にありがとうございます。先ほど幹事長から紹介ありました通り元号も令和と改まり、その最初の年にこうして270名を超える皆様にご出席いただき、今年も盛会裡に東京支部総会を開催することができました。誠にありがとうございます。皆様共々喜びたいと思います。また私ども役員並びに幹事一同、厚く御礼申し上げます。

今年はご案内の通り、ご来賓として大学から位田学長をお迎えいたしました。昨今、大学は話題も多く躍進しております。ゆっくりと詳しく最近の大学の様子をご紹介いただけると思います。また、講師として18回卒業の、ペンネームでご紹介いたしますと、矢的竜先生にお越しいただきました。作家になられた色々なご苦労や、あるいは歴史小説の裏話など楽しくお話しいただけると楽しみにしております。また例年通り、小梶理事長にもご出席いただいております。

それに加えまして、陵水会の支部間の交流をより盛んにしようという趣旨に基づき、今年は副理事長で大阪支部長の19回卒、私と同期でございますが山田さん、および20回卒で京都の支部長をされております市川さんにも上京いただきました。恐縮ですけれども、お二人ちょっと立ってその場で皆さんに顔を見せてください。山田さんと市川さんです。それともうお一方、ぜひご紹介させていただきたい方があります。それは、陵水会本部の事務長を10年務めていただきまして、この6月に退職されました佐々木さんです。私ども陵水会は全国に19支部ございますが、その取り纏めはもとより本部の運営にご尽力いただきました。こうして我々支部も円満にスムーズに活動できておりますのは、佐々木さんのご尽力によるところ大でございます。それではご紹介させていただきますので、佐々木さんちょっと登壇してください。ご紹介します、佐々木勉さんです。慰労の意味も込めまして、盛大な拍手をお願いします。大変ご苦労さまでした。ありがとうございました。

最後に一つ二つご紹介させていただきます。皆様お手元の白い封筒の中にキャラクターのバッジが入っていると思います。ぜひとも見つけてください。ありましたでしょうか。それは滋賀大学が昨年、大学の公式キャラクターとして登録されました『カモンちゃん』といいます。賢明な会員の皆様は名前の由来について直に想像がつくと思いますが、バッジの中に説明書もありますのでゆっくりとお読みください。私もバッジをこの襟にしておりますけれども、ぜひとも会員の皆様にはご愛顧いただきたいと思います。

今年は31回卒業の皆様が幹事として、その前後30回・32回の皆様のご協力のもと、滞りなく支部総会を開催することができました。本当にご苦労様でした、ありがとうございました。

それではプログラムに基づいて進めさせていただきますので、ごゆるりとご歓談、お寛ぎ頂けたらと思います。今年もどうぞよろしくお願い致します。ありがとうございました。

位田隆一 滋賀大学学長ご挨拶(要旨)

皆様こんにちは。学長の位田でございます。こんなに大勢の方、先程お聞きしますと270名を超すと仰っておりましたけれど、卒業生の皆さんの滋賀大学そして陵水会に対する思いの強さ、深さが身につきささるような思いでここに立たせて頂いております。まずは東京支部総会の開催をお祝い申し上げます。
私の方は少し時間を頂いて、今、滋賀大学がどうなっているということを、少しお話しをしたいと思います。

まず、今年度は滋賀大学が創立されてからちょうど70年目にあたります。1949年5月31日に滋賀大学が新制国立大学として設立されました。またデータサイエンス学部を3年前に創設しましたが、この4月から大学院データサイエンス研究科を設置しました。本当は4年経ってから大学院を創るのですが2年前倒しで設置しました。それで、滋賀大学創立70周年と大学院データサイエンス研究科設置の二つの記念式典を同時開催しようということで、6月1日に琵琶湖ホテルで式典とそれに伴う催しを行いました。

午前中は海外の6つの連携大学及び岡山大学・横浜国立大学、それと彦根にありますミシガン州立大学連合のそれぞれの代表の方に来ていただきました。また今年度から始まる「京都プログラム」、これはアメリカの色んな大学から日本へ留学生として来て、日本のことも一般的な学問もやるというプログラムですが、これを主催しているCIEE(Council on International Educational Exchange)の代表の方にも来て頂いて、未来の大学のあるべき姿を考えるグローバル大学会議という国際フォーラムを行いました。

午後の記念式典では私が式辞を述べさせて頂き、データサイエンス研究科の竹村学部長兼研究科長の挨拶、文部科学省から高等教育局長の伯井美徳様、滋賀県から副知事の由布和嘉子様のご祝辞をいただきました。記念講演は、カーネギーメロン大学のコンピュータビジョン、マルチメディア、ロボット工学の専門家で世界的に極めて著名な研究者である金出武雄先生に『面白く、役に立ち、ストーリーのある研究開発のすすめ』というお話をして頂きました。

夕方に祝賀会を開き、中国の湖南師範大学の副学長・周俊武先生から乾杯の音頭をとっていただいてコマツの大橋徹二会長からご祝辞を頂きました。その時にカモンちゃん、これですね。皆様、見つけられましたでしょうか。ちゃんと袋の中に入っています、私も確かめました。このカモンちゃんも出演しました。

その他、滋賀大学の近況をいくつか申し上げておきたいと思います。一つは、週刊誌のAERAにも掲載されましたが、受験生が昨年度と比べて1000人以上増えました。これは日本の国公立大学で一番多い増加数で非常に大きな話題を呼びました。データサイエンス学部ができて滋賀大学のブランドが高くなり、受験生が色んな形で滋賀大学に関心を持ったのではないか。それで受験生が北海道から沖縄までかなり散らばった形で増加し、入学してきています。データサイエンス学部だけが増えたのではなく、人数的には経済学部が一番増えました。その上にデータサイエンス学部も教育学部も増えたということで我々も喜んでいます。陵水会の皆様にも誇りに思って頂けると思っています。滋賀大学が全国から注目を浴び、我々滋賀大学の教員、職員、学生ともに非常に大きな力になったということが言えます。

二つ目は、色んな企業との連携がどんどん進んでおります。とりわけデータサイエンス学部を軸にして滋賀大学全体と企業との連携協定が50社近くになっております。50件も企業との連携協定を結んでいる大学は日本でもあまりありません。旧帝国大学はあるでしょうが、これまで滋賀大学クラスでは殆ど考えられなかったことです。その上に共同研究とかいろんな形での連携を含めると100件を超えました。「社会との連携」、「社会の中の滋賀大学」という位置づけを外部から大きく評価して頂き、様々な企業とどんどん連携を結べるようになっています。先日は京都嵐山のトロッコ列車の嵯峨野観光鉄道㈱、保津峡をトロッコで行くという観光事業をやっているのですが、この会社とも連携を結んでいます。こういう形で、データサイエンスを核にして、新しい研究・教育さらに人材育成が進んで来ている、ということをお知らせしたいと思います。

三つ目は、皆様のご出身は経済学部ですが、経済学部も発展を遂げています。特にデータサイエンス学部が出来ましたので文系と理系の融合ということで「データサイエンス副専攻」という課程が経済学部の中にできました。さらに大学のグローバル化ということともあわせて「共創グローバル人材育成コース」も走らせています。さらに今年度は、彦根城の世界遺産登録を目指して、彦根商工会議所が寄附講義の形で「世界遺産学」という講義を半年間ですが、前期に始まっています。

それから楽しい話が一つございます。皆様ご承知の彦根高商時代からの講堂が5年ほど前から耐震強度が足りず使用禁止になっていましたが、文部科学省から必要な予算を認めて頂きまして改修が始まっています。この6月から工事を始め、順調にいけば来年の4月には完了の予定です。この講堂は登録有形文化財なので外観は変えられませんが、足の不自由な方のためにスロープを付けます。中の講堂もできるだけそのままにします。木造で非常に音響が良いものですから、今後ともコンサートなどに使えます。さらに滋賀大学をご卒業された方が、結婚式・披露宴も講堂でできるようにとも考えております。彦根で勉強されて、結婚式と披露宴を思い出の母校の講堂でやりたいと思われる方がきっとおられますし、そうでない方でもあそこでやりたいという方がきっとおられます。講堂の中の小ホールの部分は、逆に完全にモダンにして、データサイエンスの共同研究室とアクティブラーニングの少し小さい部屋を作ることになっています。来年の4月を是非ご期待いただければと思います。

申し上げたいことはもっとありますが、もう一つだけにさせて頂きます。滋賀大学発ベンチャー認定制度を昨年の12月に創設しました。まだ経済学部からは出ていませんが、今年1月に教育学部の保健体育と臨床心理の先生方と一人の大学院生が、髪の毛からストレス物質を測定してカウンセリングサービスに結び付けるベンチャー企業を、滋賀大学の教育学部キャンパスを本店所在地にして立ち上げました。先日は経済学部でもアントレプレナーセミナーをやり、起業したい人は滋賀大学がどんどん応援するよという話をしたら、起業を考えているという学生が3人ほど名乗り出てきました。教育学部の理系だけではなく、経済・経営系やデータサイエンスでもベンチャーを立ち上げて産業に繋がるということが出てくることを大いに期待しています。

以上ご紹介を申し上げ、最後にお願いがございます。カモンちゃんのバッジと一緒に「教育研究支援への寄付金のお願い」というパンフレットが入っております。これには「滋賀大学教育研究への支援」と「修学支援事業基金への支援」の2種類がございます。どちらでも結構ですので、諸先輩方の浄財をなにがしかご寄付を頂ければ、大学として非常に幸いでございます。そのことによって大学もさらにこれから発展させていく力になるということを信じております。

少し長い時間を取らせて頂いて申し訳ありませんでしたが、以上で滋賀大学の現況のご報告を申し上げ、また陵水会東京支部の更なる発展と皆様のご健康、ご活躍をお祈りいたしまして、ご挨拶とさせて頂きます。本日はまことにおめでとうございます。

(文責 幹事長 和田博之)

矢的竜先生 講演(要旨)

冒頭に、小梶理事長をはじめ陵水会の皆様には多大なるご支援を頂き、ありがとうございます。心からお礼申し上げます。
皆様お疲れかと思いますが、引き続き30-40分の時間を頂いていますのでお付き合い頂きたいと思います。レジュメに沿って話していきたいと思います。

私はサラリーマンとしてはちょっと失格といいますか、転職を6回も経験しています。なぜそんなに転職したのかと自分でも考えますと、一番はやはり大化け願望だったのかなと思います。

1. 作家への道のり

昭和41年に滋賀大に入学して彦根にいた頃は作家になるとは全然思っていません。その頃は歴史小説を読むばかりで司馬遼太郎の『竜馬が行く』なんかを読んでいました。その中に竜馬を理想としている若い志士がおり最初出会った時に、北辰一刀流の竜馬さんに近づけるような剣技を一生懸命磨いています、と言った。すると竜馬が懐からピストルを取り出して、もう剣は古いよ、今はこれだと、言ったそうです。それから数年して二度目に出会った時に苦労して手に入れたピストルを竜馬に見せたら、今度は懐から万国公法だったか、そういうものを取り出し、もうピストルも古いと・・。世界に通用する規則というかそういったことを視野に入れて動かなければいけない・・。要は男子三日経てば刮目すべし。男子と言わなくても女子もそうだと思いますが、三日会わなかったらしっかり眼を見開いて相手を見ろと、それだけ日々精進して変わっていくべき・・というエピソードが記憶に残っています。これが彦根時代に出版ということに絡んだ一番の思い出です。

三回目の会社で、池上通信機というTVカメラを作っているメーカーへ35歳の時に転職しました。TVカメラでは日本・欧米はじめ世界中で池上のブランドは通っておりダントツのシェアを持っていました。超高収益の企業で「日経200社」の30何位かに堂々とランクされ、儲かってしようがないといった会社でしたが、転職組にはそんな楽な営業はさせてくれません。その頃に市場を創ろうという時期だったプロジェクターの営業をさせられました。今ではプロジェクターは20万円前後で一般家庭でも購入する位安くなっていますが、私が売り始めた頃は一台600万円という値段でいろんなシステムを組んでいくと1000万円位の商品でした。この営業を10年位、一生懸命やってもこの分野では知名度もなかった会社なので本当に売れないのです。しゃにむに展示会やショールームに顧客を呼ぶのですが業績があがってこない。そんな訳で新参者でもあり肩身の狭い思いをしていました。このままではどうしようもないということでやりだしたのが月次レポートを出すことです。これを3年間36回出しました。3号目位のとき早くも社内で評判になり、全く知らない部長や役員がわざわざ私の所へ来て「君か?これを出したのは!」というくらい衝撃的だったらしく、4回目はこの月次レポートに展示会出展の記事を載せました。一番ヒマな会長が展示会に来て、それを次回のレポートに書く。次は社長が来る、常務が来る。それらを全部次のレポートに書いて部長以上に配る訳です。そうすると非常に楽になりました。こういうことをやるのでお金かかります、と稟議書いてもスッと通るのです。海外視察でアメリカへ行きたいと言えばスッと通るし、どんどん稟議は通り、書き物というのはものすごく威力があるな、ということを実感した訳です。これが物書きになる一番のルーツだったのではないかと思っています。

次のきっかけになったのは自費出版です。当時、自費出版と同時にペットブームが非常に華やかだった頃に柴犬を飼っておりまして、このペットブームに乗っかれば大儲けできるのではないかと思い『柴犬百句』という本を自費出版しました。ところが自費出版は売れないのですね。もう殆ど差し上げただけで、そこで止めておけばいいのになぜ売れなかったかとか、売れない問題は何かとか、後日談を書きました。それで二度自費出版でお金を使いましたが、リターンは全くなくさすがにお金がなくなり、商業出版しかないということで、細々と原稿を書き始めました。その直後に池上通信機が二度目のリストラを発表したのです。転職慣れしていますから、もう一回時間をたっぷりとって、原稿書きに専念することにした訳です。それでアルバイト的な仕事をしながら一般公募の賞に応募する形で過ごし始めたところ、なんと10年間、そういう状態で芽が出ませんでした。11回最終候補になりましたが全てナンバー2でした。公募の世界でいい目をするのはナンバー1だけです。2番手以降は全くリターンがないといっても過言ではないのですが、そういう状態で10年が過ぎた訳です。

最初に出版物になったのが『不切方形一枚折り』という折り紙の話です。これが、九州さが大衆文学賞のやはり2番手で佳作になったのですが、審査員の中で「この素材は短編じゃなくて長編にすべきではないか」と言ってくれる人があり、この短編を膨らませて書いたのがデビュー作『折り紙大名』で中央公論から出版できました。ようやく10年目にしてデビュー作が出せた訳です。63歳の時でした。その翌年に彦根に転居して7年ほど経ったところです。これまでに7冊出版していますが、実は誤算がありまして今日こちらで8冊目の新刊本を発表して「買ってください!」と言う予定でした。最終的に担当者はOKなのですが、編集長が判を押さないということで実現できないままになっています。これからもうひと頑張りしなきゃという状況ですが、そんなところがデビュー迄とそれ以後の私です。

2. 出版業界・・出版不況は自業自得

私は6回も転職したので色んな業界、規模の違う会社、文化の違いなど相当経験してきましたが、出版業界は未だに理解できない業界です。出してみるまで分からない、と平気で言うのです。百田尚樹のデビュー作『永遠のゼロ』も大手出版社から中堅出版社まで軒並み取り上げてくれなかったようです。文芸書はあまりやっていない太田出版がやっと出したのですが、それが何と文庫本含めて500万部も売れた。これは特異なケースで何か事情があると思うのですが、出版社の人間が「これは売れると入れ込んだ本は大体売れない、こんなの売れるかなという本がヒットします」と平然と言うので唖然としたことがあります。普通の業界は「この商品は誰が買ってくれる?お客は誰か?」というマーケットセグメンテーションをきっちりやる。魚のいるところに釣りに出掛けないと、釣れない。いくら営業活動しても成果に繋がらない訳ですが、出版社はそういうことを全く考えないのです。営業マンに私は一度も会ったことがありません。著者がつきあうのは編集者だけです。新刊本を出したら、今月の新刊として新聞の下段の広告にタイトルを並べる、評論家と新聞の書評を担当している文化部などに献本する、それで終わりです。

私は作家デビューしたら作品を持って本屋まわりするというような活動を出版社の営業とやるのでないかと思っていましたが、一切そういうことはありません。新聞に広告出しただけで終わりという世界です。例えば『折り紙大名』、折り紙教室は全国にどれ位あるか分かりませんが、趣味のクラブが多くある。そういうところにピンポイントでPRすればもっと売れる筈です。そういう所に私も何回か行きましたけれども、やはり反応が違って買ってくれます。しかし一人では限界があって歯がゆさを非常に感じています。そういう点でも「出したら終わり」というのが出版界の実情です。

それから便乗商法が徹底しています。直木賞前夜となると、候補になった人を囲んでその著者が出した出版社の編集者がほとんど席を一緒にして同じ場所で発表を待つらしいです。要は一冊出してヒットしても、その著者を囲ってしまおうという意識はあまりなく、次は別の出版社で頑張ってくださいね、そこで売れれば私共も非常に恩恵を被るのですと言って恥じない。二匹目のドジョウ狙いが出版社の定法なのです。

最近は書店へ行っても文庫本の新刊本が山ほど出ています。単行本が高いので手頃な価格の文庫本が売行き右下がりの中でも下がりのカーブが緩いので、出版社はどこも力をいれています。文庫本のコンセプトは「捨てられる本づくり」です。さらっと読んで楽しかった、読み終わったら捨てる。時間つぶしでいいのだという読者層を狙って作っている訳です。しかし私は、本屋はメーカーだと思っています。メーカーである限り自社製品に誇りを持つ、不用品になった後でも面倒を見るとか、そういう気持ちがあればブックオフの台頭でみすみす古本市場をよその業界に取られるようなことはなかったと思います。再販制度に乗っかって出版業界は努力が足りないと思います。

時代小説は特に熟年男性がターゲットです。出版業界が把握している熟年男性像は、この歳になったら今更人からどうのとか言われたくない、教訓を得たいとか、本を読んで勉強したいとも思わないというイメージで固まっています。さらっと読んでハハハと読み飛ばし面白かったら捨てて終わり、というのが時代小説では一番売れているそうです。そこにターゲットを絞った代表的な文庫本が『居眠り磐音』で、佐伯泰英という作家の本ですが、これは発売日に10万部売れるそうです。私の文庫本は初版1万2千部でも完売には至りませんが、その10倍くらいが発売日に売れるのだから恐れ入りましたと言った記憶があります。

しかし今はいいけど、熟年男性いつまでも長生きしませんよ。いずれその購買層は亡くなるじゃないですか、という辺についてはもう後回しで、手を打とうという動きは聞いていません。そういうところを見ると、出版不況とか衰退産業とされていますけれども、衰退するのは当たり前だなという風に私は思っていまして、自業自得じゃないかと決めつけているところです。ただそのおかげで私もいい目ができずに苦しんでいるのが悔しいところですけれど・・。

3. 定年のない作家稼業、作家であり続けるために

作家には定年がありません。もう作家を名乗っちゃ駄目と言われることもありませんので、いくら本が出なくても売れなくても自分がやめたと言わない限り作家でいられる世界です。けれども、本を何とか出していきたい。バカ売れしなくてもいいのですが、新しい本を年に一冊は出していきたいと思っています。やはり先に出した本の売れ行きをどの出版社も評価したうえで判断しますので、なかなか新刊本を出すのに苦労しています。その中で、作家であり続けるために、あるいはどうしたら作家になれるかということを考えると、やはり何といっても知名度、買ってくれる又は支援して頂ける母体があるかどうか、それからネタ・・どんなことを書いているのかという3点になるかと思います。ちょっと極端な言い方をすると、出版社は著者が持っているセールスポイント、いわゆる話題性だけに乗っかっている、これが実態だと思います。どういう分野の書物を世に広げていくか等という長期的展望は殆どなく、自転車操業のように話題性を持った人に頼るということです。だから私などのように知名度もない場合、売りはネタしかない訳です。

小説家になれないのではないかと思った一番のことは、一冊の本は書けても次から次へと別のネタは見つからないだろう、だから作家にはなれないかも、と私も50歳くらいまでは思っていたのですが、実はそうでもないのです。ネタはどうしたら見つかるかということですが、私は最初に『火縄銃』という小説を書きました。これを一冊書き上げる中でいろんな本を読んだり資料を調べたりします。火縄銃は火薬で鉄砲玉を飛ばしている訳ですから、次に火薬に興味が湧いて、これから花火に興味が移った。それで『大江戸女花火師伝』という二冊目を書き上げた。それから火薬ですから岩石破砕、いわゆるダイナマイトですね、そういった形で使う道があるのではないかということから『椿の海』という小説に繋がりました。火縄銃は滋賀県の国友村が産地の一つですが、そちらにも取材に行ったりして地元の浅井長政とか、その家臣だった磯野員昌、この人は佐和山城主でもあったのですが、こういうネタを見つけて『光秀の影武者』という小説になった。佐和山の磯野員昌を書いたら、石田三成は書かざるを得ないので『三成最後の賭け』を去年出しました。

江戸時代のリストラ、いわゆる改易が盛んに行われ大名が領地を取り上げられて追放されるのですが江戸期のリストラ、改易について非常に興味があり、色々調べる中で『折り紙大名』『あっぱれ町奉行江戸を駆ける』という本に繋がってきた訳です。ネタは芋づる式に見つかるものです。だから一冊書いて次は書けないのではないか、と思う必要はありません。一冊とことん書き上げるまでに色々調べたりするから、必ずその中から次のネタが見つかるというのを、実体験した訳です。

「何日で書くの?」という質問をよく受けます。『三成最後の賭け』は400~450枚の小説ですが、書き始めてからざっと書き上げるまで45日でした。1日10枚位のペースで書けます。その前に下調べが必要ですが、大体2か月位かけます。1か月半でざっと最初の原稿を書き上げ、そこまでは早いのですが、そこから後が見直し・ブラッシュアップ、それから編集者の意見による追加・削除とか、そういう商品作成のための時間が3か月位とか、出版社によりますが時間を食う訳です。

印税についてよく関心を持たれますが、小説の場合だけを申し上げますと多いのは販売価格の10%、人気作家はもっと高い印税をもらっている人もいるようですが・・。例えば初版1万部出すと、1万冊分の印税は先払いでくれます。だから8000部売れ残りになっても、もらった印税を返せとは言われません。それは出版社のロスになる訳です。ですから実売数が何部なのかは分からないのです。出版社に聞いても絶対に教えてくれません。先日、幻冬舎の社長がある作家の実売部数を公表したということで大問題になって、結局お詫びするということがありましたが、業界の中でも実売数は内緒です。

4. 矢的竜の目指す歴史時代小説

私が目指している歴史時代小説ですが、通説に縛られない、リアリティを持つ歴史解釈を根底に置いています。天才や豪傑はいない、みんなちょぼちょぼでそんなにダントツの人間なんていないのだと・・。また、史実の隙間を埋めるのが小説家であるとよく言われますが、これは当たり前のことで、私は史実そのものの信頼性を問う、というスタンスを持っています。つい先日、老後2千万円問題があり、結局委員会からの報告書はなかったことにするということにしたけれど、現代でもそんなことなのですね。いわんや400年前に書かれた記録が真実であるという保証は何もない訳です。むしろ造られた真実、という風に疑ってかかるのが私のスタンスです。

三成はなぜ関ケ原で潔く自決しなかったのか。通説では、再起を期し大阪城に秀頼も毛利輝元もいるので、もう一度勝負するために家臣が眼の前で死んだのも見捨てて関ケ原から去る訳です。洞窟にこもって最後は斬首されるという悲惨な最期を辿りますが、この通説がちょっとおかしいのではないか。眼の前で死んだ家臣達を見捨てた三成が、かくまってくれた百姓に迷惑がかかるから名乗り出る、そんなことは考えられない、バランスしないのではないか。大望があるのであれば、百姓の命が何十人であろうと見捨て、また逃げ出す、そして最後まで貫くというのが本来の決心じゃないか。司馬遼太郎も書いていますが、恩顧のある豊臣家を裏切って家康方についた加藤清正や福島正則を縛られた三成が面罵し溜飲を下げる、というような場面・・。こんなことで溜飲が下がったの?こんなことを言うために三成はわざわざ関ケ原から逃げたのか、それはおかしいのではないかというのが私の仮説を生みました。私が立てたストーリーは家康の陰謀を暴くためだった。秀吉の失敗は朝鮮侵略だと思います。無謀な朝鮮侵略をやって大変な災難を朝鮮と日本に与えた訳ですが、結局それで豊臣家の結束はバラバラになった、財産もぐらついてきてしまった訳で、その朝鮮侵略を唆のかしたのが家康ではないかというのが私の大前提です。それを基準にストーリーを追っていくと、関ケ原まで16年間、家康の陰謀を阻もうとする三成の暗闘が続く訳ですが、その怨みつらみ・しがらみが、関ケ原で死んでたまるか、ここで自決したら家康が徹底的に歴史を書き換える、三成はどうしようもない人間にされて永遠に葬られる。そこで最後の賭けに出たと・・。これネタバレということになるのですが、その辺を誰も書いたり、エピソードにしたことはないと思います。私のオリジナルだと思っています。その辺を念頭に置いて読んで頂くとまた違った面白さがあると思います。関ケ原で三成は死にますが豊臣家は秀頼が生き残っており、まだ先がある訳です。それが大阪の陣です。ここでは関ケ原以上に通説はお粗末で、それを全部覆した続編を書いています。

皆様は通説を十分ご存じと思いますがそれを否定する、本当かね?という疑問の眼で見て、当時の出来事の前と後ろ、どんなことがあったのかという辺を眺めながら、自分の仮説を立ててみるということをされると、歴史の面白さというものがまた違った形で分かってくると思います。

(文責 幹事長 和田博之)