平成30年度東京支部総会

平成30年度の陵水会東京支部総会は、7月の第1土曜日(今年は7月7日(土))に、午後4時30分より「上野精養軒」にて開催されました。

平成30年度陵水会東京支部総会&懇親会 概要

支部総会概要

去る7月7日(土)16:30より、上野精養軒にて「平成30年度陵水会東京支部総会&懇親会」が賑やかに開催されました。歴代最多の出席者を記録した一昨年の280名という記録を更に塗り替え、300名という空前の陵水会OB・OGの参加者を数え、今年の総会&懇親会も大いに活況を呈しました。

グリークラブOBの迫力ある歌声に続き、和田博之幹事長(大19回)の「開会宣言」により総会の幕が切って落とされました。

竹森二郎東京支部長(大19回)の開会の挨拶の後、滋賀大学理事・副学長の須江雅彦様より、ご来賓のご挨拶・祝辞を頂戴致しました。須江様のご挨拶に続き、滋賀大学経済学部長の田中英明様より、ご来賓のご挨拶・祝辞を戴きました。

引き続き昨年同様、議長に鈴木重成氏(大7回)を選出し、【第Ⅰ部】の総会の審議に移りました。

総会の全ての議案(第1号議案:平成29年度活動報告並びに収支決算報告・監査報告、第2号議案:平成30年度活動方針並びに収支予算、第3号議案:東京支部役員の改選、第4号議案:東京支部規則の改定)が異議なく承認され、第Ⅰ部の総会が無事に終了しました。

この後、【第Ⅱ部】に移り、滋賀県東京本部本部長代理の三井利起様(大38回)より滋賀県情報発信拠点『ここ滋賀』(日本橋)のご紹介があり、続いて彦根市企画振興部長の馬場完之様(大32回)、まちづくり推進室長補佐の関谷英隆様(大49回)より「彦根の近況・ふるさと納税」のご紹介がありました。

 

今年の講演は、陵水会員でもある産経新聞社代表取締役社長飯塚浩彦氏(大29回)に特別にお願い致しました。

現場第一線の社会部記者時代のオフレコでの生々しい話題も散りばめられ、会場全体が熱気に包まれると共に、出席者全員が飯塚氏の機智とユーモアに満ちたトークに魅了され、引き込まれました。

続いて今回は特別に、徳川喜則さん(大50回)と今年度新卒の上小澤圭那さん(大66回)による飯塚氏へのインタビュー形式での質疑応答が行われました。

小休憩を挟んで、【第Ⅲ部】に移り、小梶清司理事長(大18回)による来賓祝詞・乾杯のご発声と共に、賑やかかつ華やかな懇親会がスタートしました。

暫し歓談の後、昨年同様、首都圏で就職された16人の新人(大66回)に登壇して戴き、自己紹介と同時に抱負を力強く述べて戴きました。

総会も終盤に差し掛かり、詩吟同好会による詩吟『将に東遊せんとして壁に題す』が披露され、続いてグリークラブOBのリードにより、『琵琶湖周航の歌』を、全員が声を合わせて大合唱しました。

続いて恒例となった、大30回当番幹事(吉田繁喜代表)から次年度31回当番幹事(藤井登代表)への「引継式」が行われました。

さらに今田淳さん(大33回、ヨット部)のエールに続いて彦根高商歌を全員で大合唱し、箸方海三氏(大4回)の三本締めにより、盛大な会は幕を閉じました。


総会&懇親会終了の後、舞台を隣の「桐の間」に移し、恒例の「二次会」を今年も企画致しましたが、約130名の会員の皆様に引き続き参加して戴き、懇親の輪は何時いつまでも途切れることなく、会場は陵水会員の溢れんばかりの熱気に包まれていました。

こうして、今年も東京支部は大成功裏に総会&懇親会の幕を閉じることが出来ました。
役員一同、皆様から寄せられました会の運営に対する熱い思いと温かい労いの御言葉に対し、この場をお借りして心より感謝申し上げます。

(文責 副幹事長 上林 好一)

須江雅彦 滋賀大学理事・副学長ご挨拶(要旨)

ご紹介頂きました須江と申します。今日は陵水会東京支部総会にお招きいただき誠にありがとうございます。このところ関西方面では大阪の地震、米原での竜巻被害があり、今週は大雨で鉄道が殆どストップして関係の皆様でご家族あるいはご親族の地元ということで色々被害に遭われた方もいらっしゃるかと思いますが心よりお見舞い申し上げます。幸いなことに大学は比較的ひらけた場所にあることもあって彦根自体は比較的平穏です。ただ鉄道が止まりますと大学は休講になり昨日は全て休講になりました。

滋賀大学は昭和24年に新制の大学として生まれ、来年で70周年を迎えます。70周年記念事業としてあまり大々的には行いませんが、記念写真集を作りその展示を大学内などで行っていこうと思っています。また位田学長が『キラキラ輝く滋賀大学』という方針を出され、学生を中心に滋賀大学の夢・希望といった輝いた姿を世の中に見せて行こうと考えております。昨年データサイエンス学部が出来て企業との連携も順調に進んでおりますし、グローバルを視野に陵水会のご支援を頂きながら学生を海外へ送り出して行くことも着実に進めていきたいと思っております。

経済学部の関係は田中学部長が後ほどご説明すると思いますので私はデータサイエンス学部の状況を少しご紹介させて頂きたいと思います。データサイエンス学部は今年2年目の学生を採用しました。200人強データサイエンス学部の学生がキャンパスの中に相当数混じってきております。学生も非常に意欲的です。今まで統計とコンピュータを社会に役立てるという意味では理系の研究以外に現実社会に役に立てるということを目的にした大学の学部が無かったので、そういう意欲を持った学生が全国各地から集まっております。昨年の一年生もそうですが、北は北海道から南は九州、沖縄からも学生が来ております。経済学部も全国から来ていますが、データサイエンス学部はそうした普段来ない地域からの学生が2割近くあります。

陵水会の皆様のご支援を頂きながらデータサイエンス研究拠点を作るということでPRも兼ねて企業回りを3年位前からやっており、100社以上訪問しております。最近は企業を回らなくても様々な企業の方から毎週何社も彦根の方へ来ていただきます。それで共同研究とか人材育成とか連携を進めておりまして、既に50社以上と共同研究などの連携が出来ております。その延長で色んな企業の若いデータサイエンティストの方に講師として来ても頂いています。そういった若い人達から世の中どういったビジネスが行われているかといったB2B(企業と企業)の話などもして頂いております。学生は最終消費財等のB2C(企業と消費者)ビジネスは分かり易く反応も良いのですがバックヤードでどういったビジネスが行われているかということも実際にデータを使った分析ビジネスの講義をして頂いております。

データサイエンスの企業ニーズが非常に高いので大学の学部としての完成はあと2年後なのですが大学院の修士課程を来年4月に彦根キャンパスに設置するということで文科省に既に申請を出しております。来年4月には大学院を定員20名で創るということで、その大半は企業からの派遣という形で企業内人材の高度化に資するように運営をして参ります。その次に博士課程を作るという議論も、今しておりまして博士課程についても少し前倒しして出来れば2020年4月から設けたいと考えております。その準備も並行して進めているところでございます。
企業や社会の注目を集めることは大変良いことですしそれによる刺激も大きいので、経済学部の学生もデータサイエンスの授業を受けておりますし副専攻も作っています。もともとデータサイエンスの応用は理系の分野もあるのですが、社会的な価値や経済的な価値が非常に大きいので経済学部と同じキャンパスにあることが、データサイエンスの教育、研究の上でも非常に役に立っていると思っております。

皆様方のお力を頂きながら進めておりますが引き続き、また今後の大学運営にもご支援、ご協力を賜ればと思っております。今後ともよろしくお願い致します。

(文責 幹事長 和田博之)

田中英明 滋賀大学経済学部長ご挨拶(要旨)

この4月より経済学部長を務めさせて頂いております田中英明と申します。どうぞよろしくお願い致します。今日はこんな中途半端な恰好をしておりますが、実は昨日まで会議で高松にいました。大雨でJR瀬戸大橋線が全面運休、高速バスも全面運休になり四国から出られず、帰宅を断念し、唯一の出口である空港から直接東京へ飛んで来ました。そういう訳で上着もないこんな格好で失礼しております。これは非常に苦労して来ましたよということをアピールしたい……のではなく、高松空港からの便は東京と那覇だけだったのです。つまり東京に飛べば四国を脱出できるよという天の声を頂いたかのようなもので、今日この支部総会があるお蔭で本州へ戻れて窮地を逃れたと、これは我が経済学部の窮地を救って下さるのはやはり陵水会、それも東京支部であるということだと強く感じております。

今の大学は、40代以上の方には想像がつかないくらい変わってきております。色々な形で学生に刺激を与えよう、それぞれの夢を、背中を押そうという企画を一生懸命やっております。例えばプロジェクト科目というものがあり、様々なプロジェクトで課題を解決していく科目です。彦根には『埋れ木』という美味しいお菓子がありますがその「いと重菓舗」さんと共同で多賀サービスエリアに置く新商品を開発するプロジェクトだとか、彦根市議会と協力して市の課題について考えていこうとか、或いは彦根の仏壇事業組合と手を組んで地場産業や地域の活性化をめざす等の様々な課題に挑戦させるという科目をやっております。また正規の科目ではないのですが様々な補講、補習という形で証券アナリストなどの難関と言われる資格のための勉強や、TOEICの補習など、既に目標を持った学生についてはその背中を押そうということをやっております。そのお蔭か最近の学生は本当に逞しくなってきました。それが就職等にも成果として大きく現われていますし、入口といわれる受験界の評価も着実に高まっていると感じております。今日はこの3月に卒業した私のゼミ生が3人この総会に出席していますが、ちょうどこの代は彦根東高校の教室へ行き-滋賀大学は彦根東高校と高大連携協定を結んでいます-、大学のゼミはこんなことをやっているんだよ、というグループ発表をするようなこともしました。

就職実績ということでは、例えば文科省出身の理事の方が本学部の就職実績を見て、これはみな一般職であるとかそういうウラでもあるのですか?と驚く程です。多分彼がこの東京支部総会を見ると卒倒するのではないかというくらい、滋賀大学が生み出し、社会で活躍している方々のあり方というのは文科省が想像するような地方の国立大学という枠を大きく超えた規格外の大学になっていると思っています。

私のところのゼミ生たちも今日の3人でいうと証券、損保という大学の伝統を受け継いだ職に就き、もう一人は国家公務員総合職で財務省勤務という風に次々と皆様の後輩も育っております。ところで、キャリア官僚の繋がりという訳ではありませんが、このところ文科省のキャリア官僚と東京医科大学の事件が新聞等を騒がしています。その背景には少子高齢化を迎えて大学のあり方、役割とか機能分担というものが大きく見直され、それぞれの大学の位置づけや大学間のランクというようなものが再編成されようとしているという事態があります。医科大学は受験生確保に困っていませんし数千万円なんていう研究費は寄付金でいくらでも集められる金額です。この機会にしっかり大学の評価を固めないと今後の大学の地位とか格のようなものが決まってしまう、そういう過渡期ならではの狙いこそが事件の背景にあると思います。

国立大学の場合には、既に数年前からミッションの再定義ということが言われ、国立大学をどういう形で生き残らせるかということが検討されています。そこでは、旧帝大系とかの一部を除きますと「地元の為に貢献する地元大学」というあり方が描かれています。しかし幸か不幸かわが大学、特に経済学部はそういう地元大学の域を大きく超えた規格外の大学です。それは裏を返すと今の国立大学の生き残り戦略に居場所がないということにもなりかねません。実際多くの地方大学、仲間の国立大学の経済学部は今どんな状況にあるかというと、それぞれの所で地元志向の理工系学部を作るための学生定員と教員ポストを供出して下さいと迫られ、リストラにより創り出した資源で経済学部と関係のない学部を作ることに協力させられています。経済学部は私立大学にお任せしましょう、国立大学は儲からない学部だけやりましょうという風に再編成をするという戦略で仲間達は大変苦しんでおります。

その中でわが滋賀大学は、須江先生たちのご尽力もあって、昨年データサイエンス学部を創り来年にはその大学院を創るという道を選んだ。ということは我々の大学はこれからも全国に向かってこの国を支える中核の人材をつくり続ける大学であると力強く宣言した、そういうことだと思っております。しかもデータサイエンスは経済学部から見ますと、これまでファイナンス学科を設け、大学院にグローバルファイナンス専攻を創り、ドクターコースとしてリスク専攻を設けたというこれまでの進化のプロセス、いわば経済学部の発展としてデータサイエンス学部があるという風にも捉えております。先ほど須江先生がおっしゃったように経済学部とデータサイエンス学部は相乗効果をもってお互いより新しいものを生み出せていける。そういうものに我々の大学は生き残りの道を選んだということである、という風に受け取って頂きたいと思っております。国からは地元志向の小さい経済学部というお金しか来なくなる恐れの中、新しい学部を創ったこともあって予算的にも教員ポスト的にも我々経済学部は大変厳しい状況にあります。より少なくなっていく人員で今の高度な教育、研究をより高めていこうという厳しい道を歩み始めておりますが、この過渡期、まさに窮地をうまく乗り越えていかなければ我々の思い描いている滋賀大学経済学部は無くなってしまうと、それだけの場に立っているという風に感じております。

こういう窮地を救って下さるのはやはり陵水会の皆さんであるという風に強く思っておりますのでどうかこれからもご協力、ご支援の程、よろしくお願い致します。

(文責 幹事長 和田博之)

飯塚浩彦 (株)産業経済新聞社 代表取締役社長ご講演(要旨)

産経新聞の飯塚でございます。私は昭和56年の卒業、29回生でございます。滋賀大学経済学部といいますと金融とかメーカーへ進む方が多いのですが、ちょっと変わっていてマスコミへ入り、そのご縁で今日お話をするというようなことになったと思っております。新聞社のトップといいますと、イメージされるのは読売新聞のナベツネさん、そういったお堅い方を想像される方が多いかと思いますが、私は落語研究会(落研)出身でございます。拍子抜けされるかも知れませんけれども45分間お時間を頂きましたのでお話しをさせて頂きたいと思います。

ネット社会になり新聞業界は非常に厳しいに状況になっております。そういった中で火中の栗を拾うというような状況で去年社長をやれということになりました。今日は記者時代の話、それから社長になってからの話・・というのはあまりできないかもしれませんが、微妙な話もあるかと思いますのでこれはこの場限りということでお願いしたいと思います。

私は実はTV局へ入りたかった。TV局へ入りたくてマスコミを受験しようと思ったわけです。当時は10月が会社訪問解禁、11月から試験という時代でした。マスコミは11月から本番。10月になり友達がどんどん就職が内定していく中で、私一人がポツっと就職先が決まらないという状況の中で、TV局を受けたり新聞社を受けたりしていました。運良くか悪くか、産経新聞に入ったというようなことです。

昭和56年に入社してすぐ和歌山支局へ配属され、3年半和歌山におりました。それから大阪本社へ転勤になり、そこで配属されたのが社会部でした。社会部はいろいろな事件、事故、それから地方自治体、大学も担当しますが、私は運悪く警察の捜査一課というところを担当させられました。皆さんご承知かどうか分かりませんが捜査一課というのは、切った、張った、殺した、火をつけた…という凶悪事件ばかりを担当するところで、そこへ放り込まれました。

★警察担当の記者時代

大阪本社へ転勤した時、ちょうど江崎グリコの社長が誘拐され、解放後も怪人21面相というのが食品会社を次々と脅迫し、世間はその話題一色でした。その年の秋、滋賀県でハウス食品を脅迫した犯人がもう少しで逮捕されるところまで行ったのですが取り逃がすという事件がございました。これは数少ない事例ですが、身代金目的誘拐ではないのに報道協定を結んでいた。つまり記者クラブと警察当局が協力し、警察は報道機関には事実を刻々と伝えるが、協定期間中は報道はしないという協定です。その時、私は大阪府警の記者クラブで次々入る警察無線を聞きながら、今にも捕まるかと思っていたらどこかで通信が途切れてしまい、どうなったのだろうと思っていたら取り逃がしていた、という事件でした。昭和59年の10月だったと思います。今はツイッターとかフェイスブック等があるので報道協定など成り立たないのではないかと思います。ここ10年間、報道協定はないのですが、ネット社会になって、だれでも情報を発信できる世の中になり、報道協定などはやりにくいのではないかという感じが致します。

それから山口組と一和会の抗争というのがございました。この事件で撃たれたのが四代目の山口組組長で、吹田のマンションで撃たれました、愛人の家です。これが運ばれてきたのが私の持ち場だった天王寺の大阪警察病院。どうして私のところへ来るのかと思いましたが、担当ですから大阪警察病院へ行きました。そうするとヤクザが自分の親分が撃たれたというので次から次へとやって来る。中へ入れさせろ、入れさせないと大モメして我々も病院へは入れてもらえない。300人〜400人のヤクザと一緒に警察病院の前で一夜を過ごすという大変怖~い一夜を過ごさせて頂きました。

次は和歌山毒物カレー事件、これもご存知かと思いますが私が社会部デスクの時に起きた事件です。これは前線の指揮に行きました。地区の祭りに出されたカレーを食べた四人が亡くなった事件でした。40人くらい入院しました。なかなか犯人が分からずに大騒ぎをした事件ですが、また後で触れさせて頂きます。

次はバスジャック事件、余りご記憶にないかもしれません。私が広島支局長の時に、九州で17歳の少年が、「東京へ行け」と西鉄バスを乗っ取り、車内で説得しようとした女性を刺殺した。このバスが私の持ち場の広島で警察に止められてしまい、取材をするはめになったということです。

JR福知山線脱線事故、これは私が大阪の社会部長の時に起きました。この事故は107人の方が亡くなるという大変な事故で、連日この取材をすることになりました。今思うと事故の大きさもさることながら、ある大きな転換点でもありました。この事故は平成17年4月25日に起きたのですが、4月1日に個人情報保護法が施行されたばかり。個人情報保護法は報道に対しては適用外なのですが、個人情報保護ということだけが強調され、取材が全然できなくなってしまったという、我々にとっては大変大きい出来事でした。それで107人の内、最後まで4人の方は氏名を公表されなかった。未だにその4人は名前が公表されていません。10年以上経っていますがこの4人は、マスコミのデータベース上では、JR福知山線の脱線事故で亡くなったことになっていないのです。記録を残すという意味では、果たしてこれが将来的にもいいのかと考えたりしています。

★新聞社の仕事

新聞社というと新聞記者をイメージされる方が多いかと思いますが、新聞社の中で記者というのは半分くらいでそれ以外には営業とか販売とか色々あります。記者の中でも政治部とか経済部とか色々ありますので我々社会部というのはごく一部でございます。政治部などをイメージされる方が多いかと思います。政治部では、首相番というのがいます。総理大臣と直接話してすごいなと思われるかもしれませんが、政治部の中では下っ端。官邸に誰が来た、どんな話をした、と上司に報告するというのが仕事で、政治部に入りたての記者がやる。そこから色々分かれていくのです。官房長官番は官邸のオフィシャルな記者会見の取材ですね、そういったところから次第にステップアップしていきます。

記者クラブは各官庁、県庁とか各企業、業界団体などにあります。他社の記者と同じ部屋にいて、「やあご機嫌さん」とか表向きは仲良くやっているわけですが、腹の中では抜いた、抜かれたとやりやっている訳です。記者は、何がニュースかを自分で判断してデスクに原稿を送ります。様々なニュースの価値というものは個々の記者の判断によって創られているとも言えると思います。

新聞記者にとっては1日2回テストがあります。他紙に載っていて自社紙に載っていないのは負けです。一番まずいのは他社全紙に載っていて自社紙だけ載っていない、これ特落ちと言いまして、社内的には致命的なことです。逆に自分だけが特ダネを書く、これは非常に楽しい、気持ちがいいです。自分が書いた記事で他社の記者がその裏取り取材に走り回っているのを見る、「産経に載っていたこの記事ホントですか」とか確認しているのを同じ記者クラブの部屋の中の傍で聞く訳ですから楽しい。この面白さを味わってしまうと病みつきになって記者をやめられなくなります。

現場から送ってきた原稿をチェックするのは各部のデスク。私が大阪と東京でやった編集局長という役職は、こういう方向で行こうという大きな方針を決めるだけで、その日の編集の実務にはあまりタッチしておりません。日々の紙面づくりの実務は編集長(編集局次長)がやります。

こういう中で、これは書くべきか書かざるべきか迷う時があります。例えば先ほど触れました和歌山毒物カレー事件の保険金疑惑の容疑者。20年前の7月下旬に発生し、私は和歌山の前線へキャップで行ったのですが、しばらく犯人が全然分からなかった。お盆があけて若い記者が知り合いの刑事さんの家へ夜回り取材に出かけたら、「犯人はもう分かっている」と言われた。林真須美という死刑囚です。ところが、証拠がまだ固まっていないので警察も逮捕できない。「あの家はシロアリ駆除の仕事をしていて、(カレーに含まれていた)ヒ素が山のようにある。ただ、子供もたくさんいるので書いたら一家心中されるぞ」。そう刑事さんが言っていましたと、記者が私に報告する訳です。

書くべきか、書かざるべきか…。迷います。こういう危ないボールはすぐ上司に上げるのが肝心です。それで社会部長へ情報をあげ、編集局長まで行き、結局書かない、見送ろうということになりました。その翌日か翌々日になって読売新聞もキャッチしたのですが、読売も一緒で書くべきか書かざるべきか迷って横睨みになっていました。その3日後、朝日が一面トップで載せました。一家心中どころか容疑者は堂々とインタビューには応じるわ、ホースで水撒くわ、連日ワイドショーが取り上げ、大騒ぎでしたが、結局容疑が固まって起訴されるまで半年ほどかかりました。

新聞記者は知ったら書くというのが原則ですが、この場合一家心中するかもしれないと刑事さんに言われると、書くべきか書かざるべきか…。結果オーライでしたが、朝日新聞はこの時、新聞協会賞を取りました。私は、他紙に新聞協会賞を取られたダメなデスクということでどこかの支局へ行くことになりました。知ったら書くというのが原則ですが、どうすべきか、今でも考えてしまいます。

★産経新聞社について

新聞記者をずっとやっていたら良かったのですが、人事の巡り合わせで編集幹部になって去年社長をやれということになってしまいました。決してすごい特ダネ記者でもなかったし名文家でもなかった。経営の才能がある訳でもないし、単に人事の巡り合わせで社長をやることになったと思っています。

私が言うのも変ですが、産経新聞はちょっと変わった新聞です。世間では右寄りとか保守とか色々言われます。多少そういう面があるというのも私は否定しませんが、何でこういう新聞かということを少しお話します。創ったのは前田久吉という、大阪の新聞販売店主から身を立て、東京へ出てきて東京タワーを建てたり、参議院議員になった人です。

ただ、東京に出てきたものの、新聞社の経営は苦しく、財界に支援をお願いした。産経新聞は財界の皆さんが株主になり、支えてもらってきた新聞社です。当時労働運動が激しかったということもあり、健全な保守の新聞が財界関係者には求められていたと聞いています。そんなこともあり、産経新聞の論調は健全な保守、現実路線というようなことで現在もやっているということでございます。

「日本を愛し、その歴史に誇りを持とう」と訴えており、世におもねらず、外国にもおもねらず、言いたいこと、主張したいことをしっかり言っていこう、主張していこうというのが基本路線です。

続いて飯塚社長から産経新聞らしい報道に関し、次の点についてお話しを戴いた。
・北朝鮮による日本人の拉致事件に関する産経新聞の報道
・産経新聞ソウル支局長出国禁止事件の背景と産経新聞の対応
・中国に対する産経新聞の姿勢
・原発に対する産経新聞のスタンス
(これらのご講演につきましては掲載を割愛させていただきます)

この後、若手出席者が代表して飯塚社長との質疑へ移った。

飯塚社長と若手会員の質疑(要旨)

聞き手:徳川 喜則 君(大50回)、上小澤 圭那さん(大66回)

-お話の中にもあったのですが、飯塚先輩は新聞記者として長年、事件現場に立ち会われてきています。その中で一番印象的だった現場についてお話しいただけますか?

飯塚:現場は色々あります。僕らにとっては慣れていることでも、その人たちにとっては大変なことが起きている訳ですね。どれがというのは難しいですが、JR福知山線の脱線事故は一番大変だったですね。取材する中で、どこから手をつけたらいいかわからなかったという感じがします。

-そういうショックなこともあれば記者をやっていて得したな、ということはございますか?

飯塚:得するというのは、若い時から名刺一枚あったら誰でも会ってもらえる、相手がOKしてくれたらね。例えば全く新人の記者が、普通なら地元の警察の署長に会わせてと言っても会って貰えないと思うけれど、署長に会いたいと言えば会えるし、県警本部長に会おうと思えば会える。県知事に会おうと思えば会えるし、これは新聞記者ならではと思います。記者になって良かったと思いました。ただ仕事で会うので、趣味で会うのとは違うからそこはちょっと考えないといけないと思いますが。

-わざと変わった点から話を聞きたいと思いますけれど、これまでに体験された一番大きな失敗はどんなことでしょうか?お話出来る範囲で良いので教えて下さい。

-今日は新卒で社会人デビューした方が16人ほどいらっしゃっているので、これから沢山失敗すると思います。こんな失敗しても社長なれるよとか、そういったことがあればお伺いしたいなと思います。

飯塚:自分で失敗したのは、皆さん知っているオレオレ詐欺で大阪市内を回って取材をしていた時に、大阪府警の機動捜査隊の刑事に犯人と間違われて連行され取り調べを受けたという、そういう失敗はありましたね。オトリになっている婦人警官がハンカチで顔を拭いたら(これが犯人だ)という合図だということまで知り合いの親しい刑事さんから事前に聞いていたので、取り調べを受けた際に、こういうことですよねと言ったら、「何でそんなことまで知っているんだ?」と驚かれた。捕まえてみたらブン屋だったので機動捜査隊のその刑事はガッカリしていました。これはまあ笑える失敗ですが、笑えない失敗もあります。

飯塚:私が東京編集局長の時に大失敗をしました。香港で、江沢民が亡くなったという情報が流れた時に、産経はそれを間違いないと判断して『江沢民氏死去』という電子版の号外を出した。これは大失敗でした。ただ、江沢民が現れるまで3か月くらいありましたが、この間、中国当局からは何の抗議もなかった。おそらく、この間、中国国内で権力闘争が行われていて、当局の関係者も事実の確認ができず、怒りようがなかったのかもしれません。テレビに江沢民が現れた時、私は映画館で映画を観ていたのですが、外信部長から「大変です、江沢民が現れました」と留守電が入って、「えーっ!?」ですわ。その時は編集局長だったので、減俸30パーセントを3か月・・・。

-その時、鬱にならなかったですか?

飯塚:見ていた映画は宮崎あおい主演の「ツレがうつになりまして。」だったんですが、映画館を出て会社に向かう時は、こちらが鬱になりそうでした。それでも社長になれました。

-今日、お話の中で書くべきか書かざるべきかという内容があったと思います。最近の出来ごとで書かざるべきと判断されたことについて、可能でしたら教えて下さい。

-和歌山のカレー事件の時、実はあの近くを通っていました。今日、お話を聞いてそういう報道されなかったこともあったのだということを改めて知りました。それに近い形で、最近皆さんが興味ありそうなニュースでお話し出来ることがあれば教えていただきたいなと思います。

飯塚:知ったら書く、というのが本来の姿かもしれないが、なかなか難しい。例えば、これも話としては微妙なことかもしれないけれど、皇室の慶事なんかでもその後のことについて新聞は知っていても書かないですね。それは週刊誌にお任せしているというところがあります。ここでは私は憚られますので何も言えませんが…。

-ありがとうございます、週刊誌とは立場が違うのですか?

飯塚:週刊誌は、そこら辺は違います。産経新聞の場合は、ほとんど宅配です。家で読んでもらっている訳ですから、興味本位や面白おかしい記事で急に読者が増えるということでもありません。一般紙は各紙ともその辺はわきまえていると思います。まぁ、私どもの会社が出している夕刊フジなどは、店頭で買う即売紙なので事情は異なりますが…。

-飯塚先輩は大阪本社の時代に専務秘書を2年務められたと伺っています。その時の大阪代表が社長になられて、その方から東京に呼ばれたと聞いております。私たち若手がこれから仕事をして行く上で上司や先輩の見分け方のようなものをお話し頂ければと思います。

飯塚:本当に人生は巡り合わせだと思います。僕はこんな調子ですからどんなところへ行っても楽しく、前向きに仕事をしているつもりです。仕事で失敗して本社勤務から支局勤務になっていたのですが、そんな調子だから、だれか見ている人がいてくれて、面白いヤツがいるね、と大阪代表だった専務に秘書室に引っ張られたらしいです。どこの会社でも、職場で合わない上司がいたり、自分の気に食わない仕事というのはあると思うのですが、若いうちなら、会社人生ずっとその上司がいることはないですし、一生その仕事をしなければならないということもない。ちょっとした会社ならたぶん3、4年でどこかへ異動したり転勤したりします。ですからその間も、きちんと仕事するとか、くさらないとか、前向きに生きるということは大切だと思います。

大阪代表だった上司は面白い人でしたね。のちに社長になりましたが、自分の意見をきちんと持っている人でした。上ばかり見ていなかったですね。そういう人だったので、あっ、この人ついて行こうと思いましたね。あと、ついて行ったらいい人は、「きょうは奢ってやろう」と言ってくれる人ですね。

-最後にひとつ、今年から社会人になった若手会員はじめ20代の参加者が沢山います。これから社会を渡り歩いていく私達にひとことメッセージをお願いします。

飯塚:何と言っても新聞を読むことですよ。自分のところの産経新聞を読んでくれと言っている訳じゃないですよ。最近は新聞読まないということになってきて、これでいいのかなと思っています。ネットではニュースを「見る」と言うのですね、「読む」と言わない。見るというのは考えないんです。ネットでニュースを見ている訳ですが、これは自分の関心のあるところだけ拾いに行く訳です。食事でいうと「偏食」ですよ。自分の好きなものだけ取っている訳です。一方、新聞は自分の欲しい情報を探しに行く途中で、こんな話が載っているの?と、つい隣の記事まで見てしまう訳です。これが新聞の面白いところで直線的に情報を取りに行くのではなく、回り道をして情報を取りに行く、そういう媒体なのですね。知らず知らずのうちに関心のなかった情報まで身についてしまう、食事に例えれば「バランス栄養食品」のようなものです。

飯塚:最近若い人が新聞読まなくなった、物事を考えなくなった。これでいいのかなという気はしますね。是非ともどこの新聞でもいいから新聞を読んで頂きたい。取り寄せ方が分からなかったら、今日はパンフレット入れていますからそこに付いているはがきに住所と名前を書いてポストに入れて貰ったら産経新聞が届くようになっています。

-飯塚先輩、今日はどうもありがとうございました。

(文責 幹事長 和田博之)